「タートル・アイランド~『亀の島』の不思議な人々」vol.2

*第2回は、マサチューセッツ州のワンパノアグ族を取り上げます。

*↑2008年、アルカトラス島でのサンライズ・セレモニー。 ©Takeo Koshikawa

【ワンパノアグ族(マサチューセッツ州)】text by:越川威夫(Takeo Koshikawa)

ワンパノアグ族は、マサチューセッツ州都、ボストンの南に居住する部族でアルゴンキン語族に属する。アルゴンキン語族は、カナダ東部及び米国北東部に分布し、東部部族のみならず、アラパホなどの平原、クリーなどの中央も含む語族であり、イロコイ族と長年敵対してきたライバルでもあった。

1620年に、英国から宗教的自由を求めて清教徒(ピュリータン)の一団(ピルグリム・ファーザーズ)102人がボストン南東約60キロにあるプリマスに、帆船メイフラワー号で漂着し入植した。摂氏零下30度以下にもなったと思われる、最初の冬の厳しさで半分近くが死亡し、清教徒のプリマス植民地の全滅は時間の問題であった。そのような時、ワンパノアグ族のスクアント(※英国教育を受けた通訳)が、同じアルゴンキン語族のアナベキ族のサモセット酋長に連れられて、プリマス植民地を訪ねた。スクアントは機転をきかせ、ワンパノアグ族のマサソイト酋長と清教徒達との仲介に尽力。ワンパノアグ族はプリマス植民地を全面的に援助し、農耕技術等も教え、清教徒達は何とか生き残ることが出来たのである。スクアントには、奴隷として英国に連れて行かれた過去があり、波瀾万丈な人生はまるで幕末期のジョン万次郎の姿を彷彿とさせる。

翌1621年、プリマス植民地はワンパノアグ族と平和条約を結び、また穀物も大豊作に恵まれた。清教徒達はワンパノアグ族を植民地に招待し、神に感謝を捧げ共に収穫を祝った。この祝宴が、米国の「感謝祭」の起源と言われている。

私は、1978年ボストン留学中に米国で初めての「感謝祭」に参加することになり、友人に誘われて、貧乏学生としてごちそうが食べられると思い浮き浮きしていた。感謝祭前夜、幸運にもワンパノアグ族の酋長の家に泊めてもらい、大変興味深い話を夜遅くまで聞き床に付いたのだが、何とそのベッドがウォーターベッドで、清教徒の様に嵐の中で溺れた夢を見てしまったのだった。それと言うのも、プリマス植民地での「感謝祭」の後日談を聞いてしまったからである。「感謝祭」から数十年を経て、ワンパノアグ族を初めとするアメリカンインディアンの悲劇が始まったと言うのだから、私は非常にショックを受けていたのだった。

マサソイト酋長の次世代になると英国からの入植者は何十倍にも増え、平和条約を勝手に解釈し、ワンパノアグ族の土地を奪い始めたのだった。トラブルとなれば、ワンパノアグ族の男を殺し、婦女子を奴隷にするなどの暴漢も出始めた。その横暴に対してワンパノアグ族はプリマス植民地に正式抗議したが、まったく相手にされなかったという。現に、マサソイト酋長の息子のワムサダ酋長は、プリマス植民地に抗議に行き殺されたと言われている。1675年、ワムサダ酋長の弟のメタコム酋長の時代になり、追いつめられたワンパノアグ族が仕方なく植民地と戦ったのが「フィリップ王戦争」である。フィリップ王とは、英国側からのメタコム酋長のニックネームであり、この戦いでは、ニューイングランド全土での戦いに発展し、数百人の入植者と数千人のインディアンが亡くなった。ワンパノアグ族側にはナガランセット族他、多くのアルゴンキン語族の部族が加勢したが、同じアルゴンキン語族のモヒカン族とピクォート族は、イロコイ族と共に植民地側に付いてしまった。結果ワンパノアグ族側は敗北し、ワンパノアグ族の人口は数百人足らずまで激減、彼らの大半が他の部族共々西インド諸島に奴隷として売られてしまった。

「フィリップ王戦争」は、1637年に起こった「ピクォート戦争」(※英国が同じアルゴンキン語族のモヘガン族とナガランセット族を使い、ピクォート族を虐殺した戦争)より始まった、いわゆる『インディアン戦争』である。インディアンに武器を渡してインディアン同士を戦わせる戦争の一つで、1890年12月の「ウーンデッド・ニーの虐殺」まで続き、伝染病の流行とともに、実に数百万人の北米インディアンが亡くなったと言われている。

*↑1973年、ウーンデッドニー(Wounded Knee)を占拠。©Richard Erdoes

そのような悲しい歴史から、1970年以降ワンパノアグ族を中心に多くのインディアンが、11月第4木曜日の「感謝祭」を心から祝う事が出来ず、「全米哀悼の日」としていたのだった。よって、私も1978年の感謝祭は彼らとともに「断食」という事になってしまい、大変忘れ難い貴重な体験となったのである。

なお、この「反感謝祭」の運動は70年代に全米に広がり、私が現在住んでいるサンフランシスコ地区でも、現在まで有名なアルカトラズ島に毎年数千人が集まる特別な行事となっている。大変興味あることに、80年代までの催しはインディアンが中心となって進められていたが、現在はほとんどの参加者が非インディアンである。朝5時のサンライズ・セレモニーに多数の人が集まることに、インディアンの人々は驚き、そしてまた非常に感謝している。今まで隠されてきた歴史を正しく理解しようと言う傾向は、米国のみならず地球の将来にとって希望であり、非常に意味があると私は感じている。

*↑1978年、ロンゲスト・ウォーク、ワシントンDCでの集会の様子。©Kiyoshi Miyata

オール・マイ・リレーションズ(全ての活けとして生きるものに捧ぐ)

越川 威夫(Takeo Koshikawa)
カリフォルニア州・サンラファエル在住。
映画制作者/ナワ・カミッグ・インスティチュート(デニス・バンクスらのNPO)アドバイザー/ピアザトレーディング株式会社役員。
ネイティヴ・アメリカンと長年にわたり交流を持ち、その文化に造詣が深い。
デニス・バンクスの自伝『死ぬには良い日だ』(2010年;三五館発行)共訳者。
ドキュメンタリー映画『死ぬには良い日だ』、『ナワカミッグ・インディアンドラムは鳴り止まず』他プロデューサー。

※第3回はホピ族(アリゾナ州)です。ご期待下さい!

(本コラムは楽天市場レイトレイシー原宿表参道店メルマガ会員向けに2011年08月05日配信されたものです)